日本人でないスコセッシ監督だから、より深い面白味が出たのではないか。
日本人とヨーロッパ人の宗教観、人生観の差異を際立たせられたと思う。
ロドリゴ神父と日本人として暮らすフェレイラ新婦の対話でも、日本人たちは
棄教で踏み絵を踏むのではなくロドリゴ神父を生かす為に踏むのだ、日本人は
自然の中から神性を見出しているとか、日本人がキリスト教を理解というか、
体得できないことを平坦な語りで語るのだ。この点、遠藤周作のほかの小説でも
見られるところだ。
演技でいえばイッセー小形の井上守だ。最初の登場では緊張感漂う尋問の
シーンでもにやにやと笑みを浮かべ、足元の泥が裾につかないよう小刻みに
自転するなどサイコパスな雰囲気を漂わせていたが、物語が進むにつれ
インテリジェンスぶりが見えてきて印象が変わっていく。通辞役の浅野の
ただ殺されてしまう農民を見ても「ただの農民ではないか」とか
「神父たちは)日本のことを理解しようともせずキリスト教を押し付ける」など
キリシタン弾圧者たちにも理があることを見せてくれ、ロドリゴ神父たちは
自分の正義(信仰)の根拠が揺らいでいく。おかげで物語が深みを増す。
日本人が小説に書いてアメリカ人が映像化することで物語の核心が
明確になったと思う。