ラ・ラ・ランド

冒頭から高速道路上に並んだ色とりどりの車とカラフルな服を着たドライバーたちのダンスから始まる。渋滞のいらだちから晴れ晴れとした空の下で軽やかに踊るさまと楽しい曲が、物語の導入に花を添えている。

1970年代の舞台かなと思ってたらスマホが出てきたので現代だった。

映画女優を目指すミアと自分の店を持ちたいゼフの夢をかなえるまでの物語。

夢見る二人はお互いのその奮闘する姿に惹かれあっていく。

オーディションに何度も落選してもトライするミア、理想とは違う音楽活動を生活の為始めるゼフとの間に徐々に隙間ができる。それを乗り越えようと営業先から戻ってミアの為にサプライズ夕食会を用意するも喧嘩して別れたり。

女優の夢をあきらめて実家に退散したミアを追って、最終オーディションへと連れ出し

そしてついに役を射止める。

すると舞台は暗転し、女優になったミアと店主になったゼフが登場する。

それぞれ夢を叶えられたのだが、それぞれの道を取ったからだろう。

偶然にもゼフの店に入り、初めてであったクリスマスのレストランでの流しで聴いた曲を披露される。二人は一瞬にしてその時に戻り、走馬灯は巡るが

全てを捨てて駆け出したりはなく、そっと終わる。一つの青春の終わりを美しく描いた。

沈黙

日本人でないスコセッシ監督だから、より深い面白味が出たのではないか。

日本人とヨーロッパ人の宗教観、人生観の差異を際立たせられたと思う。

ロドリゴ神父と日本人として暮らすフェレイラ新婦の対話でも、日本人たちは

棄教で踏み絵を踏むのではなくロドリゴ神父を生かす為に踏むのだ、日本人は

自然の中から神性を見出しているとか、日本人がキリスト教を理解というか、

体得できないことを平坦な語りで語るのだ。この点、遠藤周作のほかの小説でも

見られるところだ。

演技でいえばイッセー小形の井上守だ。最初の登場では緊張感漂う尋問の

シーンでもにやにやと笑みを浮かべ、足元の泥が裾につかないよう小刻みに

自転するなどサイコパスな雰囲気を漂わせていたが、物語が進むにつれ

インテリジェンスぶりが見えてきて印象が変わっていく。通辞役の浅野の

ただ殺されてしまう農民を見ても「ただの農民ではないか」とか

「神父たちは)日本のことを理解しようともせずキリスト教を押し付ける」など

キリシタン弾圧者たちにも理があることを見せてくれ、ロドリゴ神父たちは

自分の正義(信仰)の根拠が揺らいでいく。おかげで物語が深みを増す。

日本人が小説に書いてアメリカ人が映像化することで物語の核心が

明確になったと思う。

14の夜

1987年のとある田舎町で悶々とする中学生のある一日を描いた佳作。

ファミコン、ビーバップ、ボムなど当時の懐かしいアイコンがちりばめられているのだが、観客に対してはあったあったのノスタルジーを抱かせるだけでなく

少年から大人への成長譚として普遍性を描けていた。

主人公タカシが隠していたエロビデオを謹慎中の父親が見ていたところに遭遇するも

暴走する父親に嫌気がさして飛び出した夜の冒険を経てそのかっこ悪さを受け止めていく。

少年たちの瑞々しさがはじけていて青臭さが匂ってきそうな

良い作品だった。

 

ラサへの歩き方

聖地ラサへ巡礼のたびの物語。旅は車でもなく徒歩でもなく最敬礼の五体投地。身を投げ出しながら1200キロの道のりを進む。家族だけではなく近所の知人や仕事仲間などを連れ添った一行が聖地まで伸びる一本道をひたすらに五体投地ですすむのだ。

巨大な山々の風景の中、彼らが進む姿は実に小さくはかなく見える。

道中、子供が生まれたり搬送車が追突されて大破するなど無事ではないのだが、起こったことを悔やむのでもなく、一心になって五体投地を続ける。

印象的なのは荷物の積んだホロを自分たちで推し進めて、押し始めたところに戻っては五体投地で進むのだ。効率とか合理的とか自分の常識や知っている世界を一変するような映画だ。

一年をかけてあんな無茶な旅をして一体なんになるのだろう。

本当に世界は広い。

ただ気になったのは濡れた体を拭くために裸姿になった彼らの腹がたるんでいるところだ。アレだけ動けばやせてしまうのではないのか?

この世界の片隅に

昭和元年生まれの主人公が戦前戦中の広島での暮らしぶりを丹念に描いた作品。

主人公すずの少女時代から大人になるまでの毎日のエピソードがどんどん進んでいく。

それぞれが独立していて7,80年前の暮らしぶりがよく分かるし、ほほえましい落ちつくので楽しい。作者や監督は老人たちから聞き取りそれらエピソードをまぶしていったのだろう。まるで遠野物語のように小さな民話の集合体だ。

特に原爆投下後に、広島市の回覧板やふすまがその爆発によって呉まで飛ばされてきた、真っ黒になった被災者が行き倒れていたが、後になって呉出身の人と判明したとか恐らく、実話なんだろうな。いろんな人の思い出を組み込んだ感じがする。

アニメーションとしてはキャラクターが4,5頭身で描かれ漫画チックであり背景が蜂蜜ながらも絵本のようなぬくもりを感じさせてくれる。所作の描き方も丹念で、主人公が大きな箱を背負うときの仕草、大盛りご飯のゆれる様などアニメーションらしくて楽しめる。また、主人公の庭先の木の上から主人公たちを見下ろしているシーンがある。木の視点、神の視点なのか?

終戦後に朝鮮の旗が掲げられているシーンがあった。在日朝鮮人たちが終戦=開放を祝って掲げたエピソードなのだろう。しかし、それを見た主人公が、被害者であると思い込んでいた自分も他国を押さえつけていた加害者であったと気がつき慟哭する、というのは無理が無いか。

突然の終戦で力が抜けてさあどうしよう、飯にするか、あの旗なんだろなというくらいではないか。それとも恐怖を感じる、というのが実際ではないか。

徐々に上映する映画館が増えているという。このような作品が広がるのはいいことだと思う。

 

92歳のパリジェンヌ

原題は最後の教え、というのに日本人の耳目を集めるために改題したのかな。

老いて体が不自由になり運転もままならなくなり

粗相も擦るようになった母。92歳の誕生日に2ヵ月後に命を絶つことを家族の前で宣言することから始まる。母が死ぬ、ということを二人の兄妹は受けきれず

混乱するも母の強い意志を汲んだ妹は徐々に認めていく。

良心の呵責というか夢でうなされたり子供のころ、母親と離れて感じた寂しさをオーバーラップさせたりと描写がたくみ。思い出の若い母親とダンスする様も

母親の自由さ明るさを表現していて良かった。兄とは分かり合えないまま別れてしまったのだが受入れ人受入れられない人それぞれだと思う。

怒り

猟奇的な殺人事件の容疑者に似ている三人の男を巡る物語。

沖縄の旅人編、漁港の漁師編、都会のゲイ編と三つの物語が交差していく。この三者の内誰が犯人か、と見ている側は推測していく格好なのだが真犯人は別枠にいてもよかった気がする。猟奇的な殺人を犯した犯人はこの人だと着地させるのはなかなか難しいものがあった。

何しろ、動機付けの説明が別件でつかまった容疑者の語りであったし、なんか腑に落ちない。ミステリーのまま進めてもよかったのでは。

それでも、テレビで報道される犯人像と身近な人を結び付けてしまいそれまでの信頼関係を壊し、壊したため自責の念に責められるという複雑さを持っていた。でも三者でやるババ抜きの様になってしまった感がある。観客も誰が犯人か、みんな犯人で泣ければと思っていただろう。

都会のゲイ編を主軸においてゲイの付き合いのはかなさをテーマにしても面白かったかもしれない。